単なる個人的な想ひ出として

この方のエントリを読んで思い出したのですが。

ここではやや皮肉な言い方をしていますが、そういう職業能力をダイレクトに示すような学歴「差別」をますます強化せよという考え方であれば、首尾一貫した議論として成り立ち得るでしょう。企業は訳のわからない「官能」などではなく、労働遂行に役立つ技能をどれくらい身につけているのかを示すシグナリングとしての職業教育学歴を尊重すべきである、と。本田先生のご意見などは、(御本人はどこまで意識されておられるのかはよくわかりませんが)そういう考え方だと捉えることも可能です。(EU労働法政策雑記帳

元となっている政策研究大学院大学の福井教授の、日経新聞の評論を読んだときにたまらなく感じた違和感の正体はこれだったのか、という感じでした。昔、私これでもアメリカの大学院への留学とか夢見てたのですが、その頃、アメリカの大学院、中でもビジネススクールの雑誌ランキングで、卒業生の平均初任給とかが平然と書いてあるのが結構な驚きでした。日本だとあんまり考えにくい話でしょ。今だって、大学別の卒業生平均初任給のランキングなんて聞いたことない。

こういう現象の前提には、学校教育と職業能力のリンケージについて、少なくとも、大学選択に当たっては、単年度の初任給により評価することが社会的なコンセンサスになっていないという現状があるものと思います。実際には、長期的な職業能力を間接的に計る指標として、学校教育における到達度(いわゆる「学歴」とか「学校歴」というようなものですが)はそれなりに重視されているという可能性はありますが、当面、それは初任給とかという指標であらわされるものではないし、たぶん、就職後10年の年収とかという指標でも計りにくいものではないかと思います。つまり、端的に言って、
学力―職業能力―給与所得
がそれぞれに、少なくとも短期的、因果関係的には日本においては必ずしもリンクしていない「ゆるい」関係にあるというべきか。ただ、長期的、確率的にはリンクしているし、それを前提に企業(特に大企業)が採用活動をしていることは否定しませんが。

そこの因果関係に係る「ゆるさ」の根源を、企業内職業教育とその背景にある特殊企業的習熟の蓄積に求めるのか、特殊企業的習熟に依存しないユニバーサルな職業能力の涵養のための学校教育およびそれに基づくスクリーニングの不出来に求めるのか、労働(就職)市場の不完全さ(特に労働力の値付け機能において)に求めるのかというのは難しい問題だと思いますが、その「ゆるさ」の排除を求める点において、私は福井氏の議論と本田氏の議論に差異を見出せないのですねー。そもそもユニバーサルな職業能力を想定することそのものが、今の日本の職業能力養成システムから見てどうかと思いますし。

そして、その「ゆるさ」によって抜かれていたガスの密度を思うとき、そういうのを突き詰めることは幸せなのか、あるいは多くの人たちにとって受け入れられる議論なのか、と思ったりするのです。そりゃ、東大を出て国家公務員上級職試験(当時)に合格して建設省とか、同じく東大を出て労働省の外郭団体の研究員を経て東大助教、とかという人には素敵な議論だと思いますけどね。本人たちがそのことを認識しているかどうかはともかくとして。

ちなみに、そのガスを成分分析すると「嫉妬」や「能力向上への諦観」が出てくると、さぁ、それはアメリカ型のホッブズ的世界へようこそって感じでしょうか?