「自分だってなれたはずなのに」の怨念

高校の友人の知り合いということで、某超有力企業の中堅幹部の方と酒席をご一緒する機会がありました。
東京大学をご卒業されて、誰もが知るその超有力企業に入られ、出世コース驀進中、業界外のわたくしでもすぐ分かる要職におつきの方です。


その方がお酒に興じて言うわけです。「厚生労働省は怪しからん、俺が人事にいた頃云々、共産主義的なものすら感じますねえ。」「環境省は困ります、どうでもいい規制で云々。」「総じて、民間から評判が悪いこれらの官庁の連中は、ビジネスってものを知らないし、民間の邪魔ばかりしているから景気の足を引っ張ってみんなからこのように批判されるんだと思いますよ」


「みんな」と言われた時には、さすがに「うちの会社はたぶんそこまでは考えてないと思いますよ」と言いたかったのですが、なんせ業界でもマイナー街道突っ走る当社ごときがそんな大それたことは言えません。


さてその彼は、なぜか外務省と財務省については「素晴らしい人材が多くて、我々の立場もよく分かってくれる」と言うわけですね。経済産業省についても「頑張ってると思いますよ」と。ちょっとまてー、外務省と財務省こそ、民間の邪魔ばっかりして増税大好きで海外では何の助けにもならずに景気の足を引っ張ってるんじゃないか。経済産業官僚こそ、福島原発以来のこの状況に責めを負うべき人たちなのではないか。聞いてみると「あなたは接したことがないからわからないと思うけど、財務省の方とかはときどき当社にも来ていろんな説明をしていきますよ、説明は切れるし分かりやすいし、かなわないな、ああはなれないなと思います。立派な人たちです。」と。


そこで気づきました。要はこの人の怒りと称揚の分かれ目の基準は、自分がそうなれたかどうか、ということにあるわけです。厚生労働官僚や環境官僚にはなれただろうが、財務官僚や外務官僚にはなれないだろう、と。そのなれたはずの連中が仕事になるとそれぞれの立場から断れない指示をしてくるこの鬱陶しさ。実際彼の経歴から推測される能力ならば、大学の時にちょっとその気になれば公務員試験に受かったのかもしれません。だからそこで、なれたはずのものは厳しく批判し、なれそうにないものには寛容。でも、「なれたはずのもの」を批判した内容がほとんど「なれそうにないもの」にもあてはまってしまうのはご愛嬌。


僕から見てこんなにきらびやかなエリートでも、そういうことを思っちゃったりするんだなと。


ならば、そこらじゅうにあふれる普通のサラリーマンが、公務員や規制などに守られた企業を叩くのはこれまた道理だなと。なぜならば、18歳の時、あるいは22歳のとき、ちょっとその気になれば、自分たちだってそういう組織に入れたはずなのに、彼らは美味しい目を見て、自分はそうではない、そのことへの怨念。この怨念はとても根深いものだなぁと。


実際には、その時その時点で、その人たちはそんなことを考えなかったのです。きらびやかなエリート氏も、バブルのさなかにキャリア官僚の給料の低さを忌避して今の会社に就職したわけです。だけどその時の判断をした自分の自己責任(笑)を棚に上げて、「あったはずの自分」を執拗にクレームするのは、なかなか醜い風景だと思いました。


(1/31追記)
ブクマが集まって怖くなったので追記。エリート氏の官庁批判の内容そのものは概ね当を得たものだと思いましたし、官僚の人の一部から聞くことがある、自分が民間に行ってたらもっと給料が高かったはず説についても同じかそれ以上の醜さを感じます。